1.ジャワ
ジャワ上陸後間もなく、ジャカルタの宣伝班映画本部を中心としてスラバヤ、スマラン、ジョクジャ、バンドンの支部にそれぞれ巡回映写班が設けられた。 この頃の体験談としては、横山隆一と安田清夫のもの(1)がある。 横山はジャカルタ→バンドン→ガロー→タシクマラヤ→マゲラン→ジョクジャ→ソロ→ケジリ→スラバヤ→マラン→バニワンギ→バリ島→ジャカルタのルートを2ヶ月で巡回し、文化映画「日本の陸軍」「日本の海軍」「日本の若人」を、約40回上映した。 安田はその3本に加えて「陸軍の精鋭」「工業日本」を携行した。 宣伝班は内地から映写機、小型発電機(ホームライト)を持ち込んだが、映画館での上映には備え付けのアメリカやドイツ製の映写機があり、携行した日本製を使うまでもなかった。 国産のオールフォン・ポータブルは数万人の群衆が集まる野外映写に用いるにはあまりにも貧弱で、接収したシンプレックスを使用した。 昭和17年10月1日、ジャワ映画公社が設立される。 劇映画のインドネシア人への一般公開が企画され、南洋映画協会(2)からの委託で東宝営業部長三橋哲生(3)が持ち込んだフィルム、「西住戦車長伝」「支那の夜」「東京の女性」「孫悟空」「青春の青空」の5タイトルの中から、「西住戦車長伝」が選定された。 「西住戦車長伝」のフィルムをデュープし、要所要所に字幕をつけ、トップタイトルの音楽を消すなどして随所にマライ語を吹き込んだバージョンが接収したオランダの映画会社ムルティフィルムの機材(4)を利用して製作された。 マライ語版「西住戦車長伝」は10月11日から封切られ、「風と共に去りぬ」の現地封切成績を凌駕するほどの人気を博すこととなった。 マライ語版「西住戦車長伝」は巡回映写隊によっても各地で上映された。 この頃の巡回映写班の数は、ジャカルタに2、スラバヤに2、スマラン、バンドン、ジョクジャカルタに1ずつの計7班であった。(5) 「西住戦車長伝」に次いでマライ語版が製作されたのは、「ハワイ・マレー沖海戦」である。 マライ語版「ハワイ・マレー沖海戦」は、ジャワ祭の第一日目、3月1日に公開された。封切上映館での入場料を10セント均一とし、同時に無料での野外映写が行われた。 ジャワ祭の五日間で、有料無料合計して300万人の観客動員数を達成。これに勢いを得て7月1日~16日の七大都市で行われた米英撃滅大会での巡回映写が行われることとなり、映写班4班が各地を廻ることとなった。 第1班はジャカルタ、バンドン、スラバヤ、スマラン、ソロ、ジョクジャカルタ、マランを巡回、第2班はボジョネゴロ、ケデリー、ブスキ、マヅラ島、マデオン、マランの6州43ヶ所を、第3班はプリアンガン、バニュマス、ケドウ、ジョクジャカルタ、スラカルタ、ボゴールの6州76ヶ所、第4班はジャカルタ、パテー、スマラン、ペカロンガン、チレボン、バンタムの各州内78ヶ所で上映を行った。各班の人員は日本人引率責任者1名、現住民映写技師3名、解説者現住民1名、映写機及びホームライト設備宣伝自動貨車1台、連絡用乗用車1台、運転手2名が普通であった。携行したフィルムはマライ語版「ハワイ・マレー沖海戦」は勿論の事、「大東亜ニュース」「ジャワ時事月報」「日本陸軍の威容」「日本の海軍」「日本の若人」「戦車」であった。 映画が始まるのは午後9時頃からであり、その前座として演説や講演のほか、宣伝班資料室製作の紙芝居の上演が行われた。(6) 昭和18年4月1日、映画配給社ジャワ支社が発足し、巡回映写活動が引き継がれた。 この頃の資材はジャワ全島各地の支部と合算しても、映写機8、巡回用宣伝用貨車3、乗用車5台に過ぎなかった。 巡回用宣伝用貨車とは、ドイツのPK(Propaganda Kompanie: 宣伝部隊)が使用しているものに倣って製作した車輛であり、現地のオランダ人技師に作らせたものであった。 この車輛に発電機・ホームライト、映写機、マイクなど映写に必要な機材を全て搭載して各地を巡回した。(7) 映画配給社ジャワ支社の巡回映写隊は、昭和18年7月には、1日にバンドン、5日はジョクジャ、6日ソロ、8日スマラン、10、12日スラバヤおよびマランを廻り、13日から22日には各郡でインドネシア人向けに「西住戦車長伝」を上映した。(8) 8月26日からはバニュマス州の各僻村を巡回し、「ハワイ・マレー沖海戦」や「ジャワニュース」「大東亜ニュース」などを映写、9月7日までに12ヶ町村を巡回の予定で活動した。(9) また、10月18日から月末までには、マラン州ルマジャン県、ブスキ州ルマジャン県、ジェンベル県、バニュワンギ県の各僻村を巡回した。この際には宣伝部マラン工作隊、マラン啓民文化指導所員らの講演と合わせての映画上映が行われた。(10) 映配ジョクジャカルタ出張所は12月14日ナングランを始め月末までにケドウ、マヂウン、スラカルタ、ジョクジャカルタの二州、両候地に巡回映写隊を派遣し、「シンガポール総攻撃」や短編映画、ニュース映画を上映した。(11) 宣伝部バンドン地方工作隊は12月15日から22日までに「マレー戦記」を携えてプリアンガン州のバンジャラン、チチャレンカ、チバト、チカトマス、チジュラン、マノンジャヤ、ダルマラジヤ、タンジョンサリなど各地を巡回した。(12) 「シンガポール総攻撃」を携えた映配ジャワ支社の巡回映写隊は、12月18日から29日までにバンテン州内を、セラン、パンテグラン、ランカスピートン、レバク、チレゴン、ケルタ、マレンピ、キハラ、キマデリ、パヤ、マドルの順で巡回した。(13) また、昭和18年7月から5ヶ月の間にジャワ島の220ヶ所で「ハワイ・マレー沖海戦」の巡回映写を行ったと記録にある。(14) 映配ジャワ時代の巡回映写班は当初、ジャカルタに5班、スラバヤに3班、バンドンに2班、スマランに1班、ジョクジャカルタに1班の計12班あったが、この頃は映写機としてジャカルタにシンプレックスポータブル3組、宣伝用貨車搭載のアイスイコン型一組、オールフォンポータブル2組、バンドン班には宣伝車搭載ツァイスイコン型一式、ローヤル一組、スマラン班にはAEG、オルフォンが各1組、ジョクジャカルタにはフィリップス型1組があった。昭和18年12月には更に増えて15班となり、これを25班に拡充する計画であった。(15) 巡回映写の回数と観客数を分かる範囲で記すと、 1943年 5月 150余回、430000人 6月 220回、710000人 7月 196回、940000人 8月 269回、1630000人 である。(16) 2.スマトラ スマトラ島の巡回映写班は第25軍、昭南の宣伝班演劇班から派生して編成された。(17) 占領初期のスマトラ島は第16軍宣伝班が宣撫工作を担当していたが、後に第25軍の宣伝班が引き継いだ。 巡回映写隊の初期の行動は不明であるが、昭和18年8月には、映配スマトラ支社に巡回映写業務は引き継がれることとなった。 毎日新聞社社会部、田代継男が同行したパレンバン→ジャンビー→ムアラテポ→ムアラブンゴ→ルブリンゴ→チューロップ→スカユ→パレンバンを一週間で廻ったスマトラ巡回映写隊が携行していたのは、陸軍省恤兵金で購入されたアクメ2台、フィルムは「日本ニュース」のほか、「秀子の車掌さん」「良人の価値」であった。 これらの映画のマライ語トーキー版が製作されていたかは不明であるが、インドネシア人にも好評を博したとされる。 また、「ビルマ戦記」や、「翼の凱歌」のインドネシア人への無料公開も行われている。 スマトラ島での巡回映写の回数について、史料から判る範囲で記すと、 1943年 1~3月 日本軍向け慰問映写23回、インドネシア人向け宣撫映写90回 である。(18) 3.北ボルネオ 北ボルネオでの巡回映写については、詳細は不明であるが、 1942年9月 宣撫8回、慰問10回、その他3回、10306人 10月 宣撫23回、慰問9回、22408人 11月 宣撫22回、慰問10回、22405人 12月 宣撫17回、慰問12回、18130人 と史料にある。(19) 映画配給社北ボルネオ支社がクチンに開設されたのは昭和18年2月(20)であり、巡回映写班の活動は続けられた。 4.海軍占領地 海軍占領地域は映画的環境がジャワ島、スマトラ島に比べて未成熟であり、映画館はセレベスに13館、ボルネオに30館、アンボン島とセラム島に4館、バリ島とロンボック島に7館、ニューギニアに1館、ティモール島に1館の計56館があるのみであった。(21) マカッサル、メナド、バリ、バリクパパン、ハンジェルマン、ポンティアナ、アンボンの巡回映写班7班は「紙芝居、パンフレットの配布、移動図書館の使命も果たすこと」と、「映画配給に関する要綱」にその目的が明記され、音楽班の編成、写真展覧会の開催も行う予定であった。マカッサルには海軍民政部の手によるコーヒーの宣伝自動車から改造した巡回移動用の車輌があり、電化されていない奥地にまで宣伝工作をしていた。 巡回映写により現地で「常設館設立運動」が起こり、マヂエネでは実際に映画館が建てられるに至った。(22)設立計画はパロポ、シンカン、ワタンポネへと波及していったようであるが、映画館が建てられたかどうかは不明である。 巡回映写の回数と観客動員数について、史料から判明する範囲で記すと、 (セレベス島) 1943年9月 29回、78800人 10月 59回、132500人 11月 44回、118116人 年中行事「バツサール・マラム」での巡回映写活動 10月 1日~16日 マカツサル 15回、17300人 7日~9日 バラニツパ 3回、15000人 18日~21日 シンカン 4回、25000人 23日~24日 マロス 2回、4000人 20日~23日 ボンタイン 4回、11500人 25日~28日 スングミナサ 3回、8000人 11月 4日~9日 ワタンポネ 5回、15500人 10日~11日 ワタンソツペン 2回、12500人 14日~16日 バルウー 2回、16000人 計 40回、124800人 (サンギル島、タラウド島及周辺の小島への巡回映写) 10月16日から22日間 11ヶ所、16回、21416人 (バリト奥地のダイヤク族宣撫巡回映写) 10月16日から36日間 ダイヤク語解説付「ハワイ・マレー沖海戦」を映写 13ヶ所、18回、46200人 とある。(23) ------------------------------------------------------------------------------------ (註) (1)横山隆一「フクチヤン便り ジヤワ島巡回映画記」、『日本映画』昭和17年11月号、p.60-61 横山隆一「ジヤワと映画」、『新映画』昭和18年2月号、p56-57 安田清夫「ジャワに於ける日本映画の宣伝的役割」、『映画評論』昭和19年7月号、p.11-14 (2)南洋映画協会は昭和15年12月発足、昭和17年9月末に解散し、日本映画社海外局と映画配給社南方局に業務及び人事が引き継がれた。 田中純一郎 『日本映画発達史』 3 戦後映画の解放 P.114-115、中公文庫(1976)参照。 ジャワ映画公社は昭和17年10月発足、昭和18年3月末に解散。日本映画社ジャワ支局と映画配給社ジャワ支社に引き継がれた。 (3)前掲書 田中(1976) P.122によれば、三橋哲夫がジャワに赴任したのは昭和17年5月である。 (4)ムルティフィルムについては、オランダ統治時代に所属していたインドネシア人キャメラマンR・M・スタルト(ラーデン・マス・スタルト)の証言を参照。 インドネシア国立文書館(編) 『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』 木犀社(1995) P.184-192 日本ニュース記録委員会(編)「ジャワ攻略と文化部隊」 『ニュースカメラの見た 激動の昭和』 日本放送出版協会(1980) P.89-94の記述も踏まえると、 1942年3月初旬、大宅壮一と石本統吉がムルティフィルムを接収した当初は、機材はオランダ人スタッフが置いていった重いものしか存在しておらず、 バンドンの山中に疎開されていた他の機材は、スタルトの協力で戻されたようである。 機材の名称について、前掲書 「ジャワ攻略と文化部隊」には、 デブリー製の自動現像機や、液温の自動調整装置、アケリー・オーディオカメラや、 ウェスタン・エレクトリック社製のレコード自動演奏装置が記載されている。 なお、 田中眞澄による関正へのインタヴュー、「ジュロン抑留所の想い出 ガリ版新聞文化部長・小津安二郎」 『KAWADE夢ムック小津安二郎』 河出書房新社(2001) に登場する「日本軍が陥し」た「ジャカルタの撮影所」は、このムルティ・フィルムを指していると推断される。 (5)田村幸彦「ジヤワの映画界」、『映画旬報』昭和18年2月1日号、p16~17及び、 三橋哲生「ジヤワの巡回映写」、『映画旬報』昭和18年11月21日号、p48-49 石本統吉「ジヤワの映画政策」、『映画旬報』昭和18年9月21日号、p13 (6)前掲「ジャワの巡回映写」p.50-51、プロパガンダ紙芝居は14作品『ジャワ・バル』に収められているのだが、「読み語る」部分が全てインドネシア語なので読むのに難しい。 なお、「紙芝居の出来るまで」という記事が、『ジャワ・バル』の昭和19年11月15日号、p22-23にある。 (7)前掲「ジヤワの巡回映写」p.51 (8)『ジャワ新聞』昭和18年6月29日2面記事「日映巡回班七月の日程」 (9)『ジャワ新聞』昭和18年8月30日2面記事「バニュマス州を映画巡回」 (10)『ジャワ新聞』昭和18年10月12日2面記事「巡回映写班東部へ」 (11)『ジャワ新聞』昭和18年12月15日2面記事「農村で映画好評」 (12)『ジャワ新聞』昭和18年12月17日2面記事「巡回映画」 (13)『ジャワ新聞』昭和18年12月20日2面記事「バンテンで巡回映画会」 (14)『ジャワ年鑑』ジャワ新聞社、昭和19年、p.171 (15)『ジャワ年鑑』ジャワ新聞社、昭和19年、p.171 (16)前掲「ジヤワの巡回映写」p.50 ただし津村秀夫『映画戦』朝日新聞社、1944年、p.166では、日本軍向け慰問映写と合わせて、次の数が記載されている。 1943年 5月 180回、390000人 6月 220回、670000人 7月 196回、740000人 8月 163回、1320000人 ----------------------------- (17)田代継男「南の島の巡回映写班」、『新映画』昭和19年2月号、p.22 (18)津村秀夫『映画戦』朝日新聞社、昭和19年、p.155 ----------------------------- (19)「南方諸地域映画事情 北ボルネオ」、『日本映画』1944年4月1日号、p.31 (20)前掲書 田中(1976) P.123 ----------------------------- (21)米山忠雄「セレベス現地報告」、『映画旬報』1943年2月1日号、p.14-15 (22)「セレベス 「マヂエネ映画館」棟上式」 『映画旬報』昭和18年11月21日号 p38に、写真四枚付き小記事あり (23)「南方諸地域映画事情 セレベス」、『日本映画』1944年4月1日号、p.30 ---------------------------------------------------------------------------------------
by tokyomonogatari
| 2011-03-24 11:03
| 南方映画史メモ
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